何かありそうで何もない

Yet Still Here We Are

無題

敬愛しているアニメスタジオに起きたこと、奪われた過去と今と未来の大きさに対して、自分は今表明できるような言葉を持たない。
しかし何も言わないままに別のことを書く気にもどうもなれないので、
今回はそれと前後してふと考えた、関係あるような無いような、ことを書く。なお、まとまりはない。

全く別の文脈の出来事である。
YouTubeを拠点に活躍している、若者に人気のとある音楽グループが、炎上商法の一環として、セクハラ・パワハラを利用したというネット記事を目にした。
実際にその現場を見に行ってみると、批判の声の一方で、その行いを「聡明」「大胆不敵」と賛美する言葉が多く飛び交っていた。
私は当該記事を見るまでそのグループを知らなかったのだが、どうやら一部の若者からは絶大な支持を得ているらしい。フォロワー数も150万近くいた。知らなかった。

調べてみて驚いた。彼らの唄う歌には、大変暴力的な言葉が並んでいる。
女性蔑視や差別用語、他者への攻撃表現を赤裸々に並べ立てている歌詞も目立つ。
それでもライブ動画などを見ると、大勢の若者たちが七色のペンライトを振って盛り上がっている。
かつてトランプ大統領の当選で、それまで不可視化されていたアメリカの実態が浮き彫りになったわけだが、それに似たものを、その熱狂から感じた。

この世界はあまりに断片化されている、と思った。
誰かが似たようなことを言っていた気がするけれど、
今のネットの社会においてはもはやメイン/サブカルチャーというものはない。
あえて言えばたくさんのサブカルチャーがバラバラに漂って、互いに溶けあうことのないまま、それぞれの中で煮詰まってゆく。
そして外と隔絶されたあたたかいスープの中で、やっちまえ、やっちまえと彼らが叫ぶ。*1

これはまた別の文脈のことである。
今回の選挙に出ていた政党の中に、マニフェストで「ぶっ壊す」と大きく謳っている団体があった。政見放送を少し見てみたが、彼らは何がしたいのだろう、というのが率直な感想だった。
ほとんどの人がその主張をまともに取り合わず、見て見ぬふりをしていることだろう。私含めて。当たり前、かもしれない。けれどきっと、そうではない人もいる。

そうして暴力的な叫びを上げている勢力が、人々が目を背けるうちに、
いずれ暴力的な方法で誰かの尊厳を傷つけるのではないかと思うと空恐ろしい。

メインカルチャーというものがあった時、サブカルチャーはそこに属せない日陰者たちの拠り所になってくれていた。
私は、サブカルチャーとは声なきもののための声だと思っている。
共有されない苦しみ、悲しみ、そうしたものを仮託できるキャラクターや音楽が、たくさんの人々を救ってきたと思う。

だから本当は、この世の中のあらゆる表現に対して、それを駄目だと言うことはしたくない。
だけど、今、ひとつの思いが繰り返し胸のうちに浮かんでくる。

自己存在の証明のために誰かを傷つける表現は、いらない。

政党をうたう団体が公共放送で過激な言葉を撒き散らし、
性的搾取や暴力を自らの売名に利用する表現者が「聡明」「果敢」と評価され、
数え切れない年月の努力の末に人々の夢を描き出してきたクリエイターの命が奪われる。

こんな暴力に頼らなければ、あなたがたは声を上げられなかったのか、と思う。
あなた方の声を誰も聞いてくれなかったのか、と思う。

個人が誰でも声を上げられる時代になった。
それでも、日陰者の主張は、大多数から黙殺される。
誰もが世界に向けて声を上げられるようになったからこそ、黙殺されたという事実は、イコール社会から見捨てられたと当事者に拡大解釈されるようになる。
そして彼らは自らの主張を誰かに届けるために、ますます暴力的な色彩を帯びてゆく。

こうした話題に、歌の引用が適切かはわからないけれど、
最近これらの件について考えるときに頭の中で響いている歌があるので書き留めておきたい。

君の名は、をきっかけに日本を代表するアーティストのうちのひと組として認知されるようになったRADWIMPS
私は今から十年ほど前、高校生の時、彼らのファンだった。
なんならRADの歌の歌詞を手書きでノートに書き写して持ち歩いていた。
その頃のRADWIMPSの歌に、「One man live」という曲がある。

「今に泣き出しそうなその声が 世界にかき消されそうになってしまったら 僕がマイクを持って向かうから 君はそこにいてくれていいんだよ」

私は、歌うなとは言わない。お前らは歌うなとは言わない。
全ての表現を、出来うる限り許したいし許されてほしいと思う。
けれど、「ぶっ壊せ」「やっちまえ」と叫ぶ彼らの声を聞くときに、
それは本当にあなたたちが歌いたかったことなのかと問いたい。
その暴力的な叫びは、本当にあなたがたが一番伝えたかったことなのですか。

本当に「壊す」ことが第一目的なのですか。「やっちまう」ことが、「Xす」ことが、本当にやりたかったことなのですか。どうしてそんなことを叫ぶようになってしまったんだよ。どうして。そう声を大にするまでに至る、世の中への様々な不満ややり切れなさを抱えてきたのか。それを拾い上げるためにはどうすればいいのだろう。暴力的になる手前でそれらに寄り添うにはどうすればいいのだろう。

以下、またしても話がとっちらかる。

駅でよく、舌打ちをする人々を見かける。
誰かと少しぶつかっただけで、誰かが前を横切っただけで、電車が一本先に行ってしまっただけで、舌を鳴らす人がいる。舌打ちは、不快さや怒りの、最も原始的な表現だ。

今でこそ私はそれを耳にすると、
きっとこの人は仕事や家庭で辛いことがあったのだろうなあと思うし、
なんなら二本足で歩く人間という生物が、「チッ」なんて、昔飼ってたハムスターみたいな声を出すのは面白おかしいものであるなあなどとひねくれた感想を持ってしまうのだけど、
高校生の時は、駅でこの舌打ちを聞くのが本当に嫌で、他人が他人に対して舌打ちしているのを聞くと心臓がぎゅっと縮む気がしたし、自分が誰かに舌打ちされた暁には、そのまま線路に飛び込んでしまいたくなった。
身の回りの人々に迷惑をかけているだけでなく、駅ですれ違っただけの名も知らないおじさんにさえ不快感を与えてしまう自分の存在など、ない方がいいと思った。

そんな自分が生きてきたんだよ。あれから十年も生きてきたよ。あの時の私はここまで生き延びると思ってなかったよ。
それでも今ここにいるのは、(現実でも虚構でも)誰かの表現が、声が、言葉が、私に寄り添ってくれたからだと思うし、表現とはそういうものであってほしい。

誰かを否定し、傷つけるものでなく、肯定するものであってほしい。

*1:歌詞の中に文字通り「やっちまえ」と書かれているわけではない。しかしそれと同義の言葉が多数含まれている。