何かありそうで何もない

Yet Still Here We Are

無題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当はこんなことを書きたくなかった。自分のことなど書きたくなかった。あるいは自分のことでもいいから誰かのために書きたかった。そんな自惚れたことを考えていた。しかし今私は自分のことを自分のために書いている。浅ましいのは、そうであるならばこのように人目につく場所に文をさらけださずにそっと胸の内にとどめておけばいいのに、わざわざ公にしているところだ。

私はあさましい。だからもう死にたい。

そう、死にたい。

何かを書こうとしても浮かぶのはその言葉ばかりなのだ。私はそれから遠ざかろうとした。そのような言葉を書いても誰もがまたかと眉をひそめるだけだ。この世の中には死にたいが溢れているのに、死にたいと話すことは忌避されている。甘えだと言われる。かまってちゃんだと言われる。本気で死ぬ気もないくせに。本気で死ぬ気が無いのに、リストカットすらできていないのに、死にたいと考え、死ぬ方法について検索するのは、それだけの暇を持て余した愚図のすることだ。私は私に言った。私は黙っていようと思った。本当に死ぬ時が来るまで、この中途半端な気持ちを胸に秘めておこうと、14歳の時に決めた。それからさらに14年が経った。私の人生計画では25歳で死ぬはずだった。なのに私は26になり、27になり、28になってしまった。そしてまだ死にたいと思いながら生きている。つまるところを言うならば、私はきっともう死ぬ気はないのだろう。ただこのまま生きていけるとも思えない。

私はもう、死にたいと思うことに疲れてしまった。死にたいと思うことから離れたい。死にたいと思う罪悪感から逃れたい。

死にたいと思わないですむように、もう死んでしまいたい。

 

もっと明るくて楽しい話題を書きたかった。悩みごと相談に乗ったり、人生を楽しむ10の工夫について話したりしたかった。なのに私の中にはあまりにも死が充満している。何を書こうとしても結局は死についての話になってしまう。

私は分からない。私はとても幸せな人間だ。何をもって幸せとするかは人それぞれだが、客観的に見てとても幸せな境遇にいるのだろうと思っている。なのにこんなにも死にたい。贅沢病なのだろうか。どれくらいの人々が死にたいと考えているのか分からない。本やネットで見る限り、人類の大半は死にたいと考えているように思える。なのに私は誰かと死にたいということについて話したことがない。

毎晩会社から帰りながら死にたいと考えている。

私が悲しいのは、趣味の海外旅行をしている時でさえ、見知らぬ町並みを歩きながら、私はずっと死にたいと考えている。この世界のどこに行っても、何をしていても、死にたいという気持ちから逃れることができない。

それはもはや私の胸の中に住んでいる。死にたいと考えていない自分を思い浮かべることができない。

死ぬくらいならこの身を捧げて今世の中で苦しんでいる人たちを救う活動に従事したいと思う。けれど自分のような不器用者は何をしても人の足を引っ張ってしまうだけなのではないかという気がする。

このようなことをかれこれ十年以上ずっと書こうと思いながら、いつかきっと私はここから抜け出して、かつて抱えていた希死念慮からどう抜け出したかという、誰かに向けた言葉にできるはずと信じて口を閉ざしてきた。努力をすればどうにかなるはずだと思っていた。けれど私はもうだめな気がする。きっとこのまま死にたいと思いながら私は生きてゆくのだろう。