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高3限定ー梶本レイカ:暴力や搾取に意味はあるのか。

高3限定を読んだ。BL漫画において、「読まれなければならない」と思った作品は、これが初めてかもしれない。

前回こちらで感想を書いた「ミ・ディアブロ」と同じ梶本レイカ先生の作品。そもそもこの作家さんに出会ったのは、「高3限定」を人から勧められたのがきっかけだった。

昨秋、Twitter上でオススメの作品を募っていたところに、一通のDMをいただいた。 「大事なお友達から、内緒話をするように教えていただいた作品です。あなたにもこっそりお伝えします」

それが、「高3限定」だった。

当時自分は国外に住んでおり、電子媒体で読みたかったのだがKindle版が無かったため、紙媒体のものを日本の実家宛に通販し、帰国後一番に手に取った。

戦慄した。

感覚的な記述で申し訳ないのだけれど、この作品を読む間中、胸の内側がすうっと冴え渡って、瓦礫のように積み上がった氷の欠片を、その切っ先で指を傷つけないように、一枚一枚剥がしてゆくようだった。その奥に何かがあるのを知っていて、それを目指して欠片を取り払ってゆくのだけれど、同時にその奥に生き埋めになったもの、あるいは既に死んでいるのかもしれないそれを見つけ出してしまうのが怖いような不思議な感覚。

「これはただの恋じゃない」と帯にある、まさにその通り。
この本のテーマは愛や恋ではなく、別のところにあって、それがたまたまBL要素を含む形で描かれただけなのだと思った。
私からすれば、これはただの物語ですらない。ある種の心象風景、私たちが現実の人生の中で出会う、筆舌に尽くし難い感情そのものだ(それは叶わない願いとか叶わない愛だとか叶わない生き方だとか理由のない搾取だとか救えなかった命に対しての、ぐっちゃぐっちゃした何か)。

どうか、試しに一巻、というのではなく、三巻まとめて手にとって欲しい。
そして何を思おうと、どんなに苦しかろうと、最後まで読みきって欲しい。

あらすじ。
全寮制の男子校に通う小野は教師のイケダに恋をしていた。

『健全な精神を育成する為』の山奥の校舎は 
果たして『健全』だったかどうだか 
箱庭の記憶の様に非現実的に脳裏に刻まれている。
オレは 収容所の 傲慢なサル。

本当に オレはイケダが好きだったんだ。
あの閉鎖された檻の中でイケダだけが現実だった。
卒業生で まだ若くて 話題豊富のテキトーな授業な
そんなイケダが オレは本当にだいすきだったんだ。

オレは本当に イケダが好きだったんだ

高校3年の春、小野はイケダが毎年、3年生からひとりの生徒を選び、1年間だけ肉体関係を持つという噂を耳にする。それが、「高3限定」。
その年の「高3限定」となり、イケダと関係を持つようになる小野。しかしそこで目にしたのは、イケダの身体に残る歯型、火傷、緊縛痕、その他無数の暴力の痕跡だった。

「前のヤツかよ誰だよ!?ソレ…アイロンだろ?人間じゃねーよ!俺…許せねぇ…ブン殴ってやるッ!」
殴ってやると言った口で、依存した口付けを繰り返した

小野は夢想する。自分が、あらゆる傷からイケダを救える、最初の男になれるのでは、と。そして何度も何度も、イケダに「大好きだ」と愛を伝える。

『大好きだ』と、100唱えるよりも 一度でも、『幸せなのか?』と、問うべきだった。

イケダは時に悲痛な叫びで許しを乞い小野に奉仕するかと思えば、一方で傲岸な態度で小野に野良犬殺しを命じたりする。
(「なァ……オノぉ……犬———なんだァ アレ…責任取れよ始末しろよ?殺せよ?萎えてかなわねェ———」)
小野もまた同じ。
イケダへの突き抜けた優しさと愛情(「センセイのこと考えると 懐かしくって泣きたくなって ずっと一緒にいたくて放したくなくて」)が、時折凶暴な渇望に変わる(「言えよ 俺のどこがダメ?スゲーイイコなのにオレ。愛情フルコースだったろ?おい」)。

主に小野の視点で描かれる一巻前半、その狂気的なまでの揺らぎに、読んでいて何が現実で何が真実なのか分からなくなる。美しさと醜さとか、生きたい気持ちと死にたい気持ちとか、本当と嘘だとか、そういう正反対のものが、それはもう凄まじい勢いで混在しているのだ。
その混沌ゆえだろう、この作品をホラーだとかミステリーだとか評する人もいるし、実際に公式の説明でもホラーという言葉が使われているけれど、私はそうは思わない。
これはただ純粋に、自分の視点でしか物事を見られない、そして過去に対して振り返る以外に成す術をもたない人間が見る現実の姿(または思い出の姿)、そのものを忠実に写し取った結果なのだと思う。

梶本さんの得意とする、過去と未来が絶え間なく現在の間に挿入されてゆく語り方、その未来の一場面において、小野はこう述懐する。

時折、18の自分に嫉妬する。
あの白い 腐食した花びらを食んだ、この指が憎い。
今すぐ この指を 喰い千切って 靴底で踏み躙ってやりたい。
だが まだ お前の味を含んだこの指は惜しいので、
時折、18の自分に嫉妬する。

「得体の知れない暴力に壊されていくイケダと、それを救うことで自分の存在意義を得ようとした小野」という見かけ上の物語は、一巻の後半、それまでの脇役である小野の親友トミーの証言、それに続く「土屋将隆の日記」という短編によって、新たな一面を現す。
町が隠す「事件」とは何か、「高3限定」の本当の意味はなんだったのか。

2巻以降、お前を救うと言い募る小野をイケダは恋人として受け入れ、一夏を共に過ごす。
しかしその中で、イケダの謎はますます深まってゆく。精巧な義眼、繰り返される長期の治療。
イケダは小野のことを、時々「ツチヤ」という名前で呼ぶ。「ツチヤ」が彼を助けるために生き返った、それが小野なのだという。
「ツチヤ」がイケダにとっての救世主なら、自分は自分自身ではない誰かになっても構わない、とさえ小野は思うようになる。
「俺の名前が変わるくらい……俺の存在が消えるくらい……何の意味も為さないよ、俺が『小野耕平』で或る事は……」
そう思う一方で、小野の言動は矛盾する。自らの存在意義を切望する彼はやはり、他の誰でもない自分自身を、イケダに必要として欲しかったから。
そして小野はツチヤを、生き返りの神話を、否定する。
「恋人から拠り所を奪い 青臭い自己証明の為に 傷ついた恋人を更に追い詰めた」

イスだ
パーティーしてた
あの頃、あの夏———オレと先生はイスの足一本でバランスを取りながら 崖っぷちでパーティーしてたんだ
別にオレは 谷底までダイブしたってよかったんだけど
先生は何故、先にイスから降りたんだろう———

第三巻の後半半分を占める、タネ明かしとでも言うべき章が圧巻。
トミーの告白が、イケダと小野の、まるで町それ自体のように閉じた世界を、外の世界に繋ぐ。
1ページ1ページの持つ力が、とにかくすごい。

この作品には、元となる事件があるという。
それがなんなのか明確には述べられていないが、おそらく確実にこれだろうという事件は特定されている。
私はその事件当時まだ生まれておらず、読んでいる最中その事件との結びつきが直接脳裏をよぎるようなことはなかったのだけれど、読了してから事件について調べるうちに、ハッとした。
私は実はその事件の現場の近くの出身で、小学校時代、半ば怪談の一種として、「コンクリート……」という言葉が子供達の間で囁かれることがあった。
それがおそらく、作者である梶本レイカさんがこの作品を生み出す契機となった事件だったのだ。
漫画読了後、事件の詳細をネットで調べたが、読むに耐えないものだった。
いわれのない暴力。理由のない暴力。意味のない暴力。希望のない暴力。救いのない暴力。それは普段の私たちの生活からはあまりにかけ離れていて、でも無責任だと自分を詰りたくなった。

高3限定は、その事件をきっかけに生み出されたものかもしれないが、実際にそこで描かれる物語は、全く異なっている。
斬新で練りこまれたキャラクター造形や物語は、ドキュメンタリーやルポルタージュとは違う、梶本レイカさんのオリジナルだ。
この作品はBLとしての人間ドラマでありながら、次元を異にする何かについて語っている。
その語り口は、言いようによっては詩的とか芸術的と評されるものかもしれないけれど、決してかっこつけるためだけのレトリックではなく、私には、それはそう描かれる以外に方法を持たなかったのだ、というように読めた。梶本レイカさんは、誰にも描けないやり方で、誰も描くことができなかった主題を、ひとつの物語として誕生させたのだと思う。シーン変更や言葉の使い方、コマ割り、非常に多様な筆致の併用、それら全てが、ありのままでは目に映らない世界を、私たちの目に映る次元に落とし込んでくれている。

たぶん、この作品がその重厚さに見合う評価を受けられずにいるのは、
あまりに多くのテーマを含みすぎてしまったからだと思う。
では、この作品の伝えたかった意味を、ひとつの言葉で表すとしたら、何になるだろうと、ずっと考えていた。

(以下、最後に少しだけネタバレ考察含みます。)
それは、「全ての物事に対して意味を求めてしまう人間のあり方」ではないかと思う。人生や、過去や、そして脅威や暴力に対してまでも。
意味を付さずには不安で仕方なくて、それに失敗すれば「異常」や「狂気」という言葉で片付けてしまう、人間のあり方ではないかと思う。

そして意味を他人の上に求めた時、それは依存になる。
小野とカイド(土屋)が、イケダに対してそうしたように。(二巻でカイドの指が切断されるのは、「嘘の続きを担った」彼自身が意図的にしたことではないか?)

そしてそうした人間のあり方が、「コウサンゲンテイはありませんでした」というイケダの最後の言葉によって否定される。
他人に意味を求める人間のあり方が、「小野 お前の存在その物が 搾取なんだよ」という言葉によって否定される。

だからこれ以上、この作品の持つ意味を追求するのはやめようと思う。
でもひとつひとつの描写や言葉が伝えようとしたことは、また作品を読み返す中で、丁寧に拾ってゆきたいと思う。
「高3限定」には、なにかがある。
だからこそ、是非、もっとたくさんの人に、この作品を読んでほしい。

高3限定は、装丁も実に素晴らしい。私が特に好きなのは、下の三巻。