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何かありそうで何もない。

せかい系自己矛盾腐女子の生存報告。まだ生きているようです。

FINAL FANTASY XV(FF15)エンディングテーマ「Too Much Is Never Enough」和訳+解釈&考察

盛大なネタバレ注意。クリア後に見てください。

英語はフィーリングのため間違いがあったらすみません。FF15は日本語と英語の実況動画を交互に見ながら一周。
イタリック体が歌詞。繰り返し部分省略。
*が解釈と考察。複数通りの可能性が考えられたものは、番号をふっています。
 

And the crown it weighs heavy
'Till it's banging on my eyelids 

王冠は重く俺の頭上にのしかかる 
視界さえも覆い隠すほどに

*bang=ドアなどを強く叩く。bang on my eyelidsで、瞼を叩くほど、つまり瞼にかかるほど重く深く王冠を頭上にいただく様子。ノクティスが感じている王としての責務の重さの象徴。


Retreating in cover and closing the curtains...

袖幕へと下がろう、もう幕引きとしよう

*こちらの神考察(「【考察】FF15という幻想に重ねられた現実の神話」/「jm」の小説 [pixiv])によると、FF15ハムレットの物語がベースとなっている可能性があるのだそうです。それを踏まえると、シェークスピアの戯曲の終幕としてのイメージをこの一節から受け取れます。

*Cover=シェルター、安全な場所というのが直訳。このフレーズには、「戦いは終わりだ、安全な場所へ戻ろう」というニュアンスも含まれます。

*retreatという単語ひとつ取っても、これがgoing backとかreturningじゃなくて、retreat。「撤退する」。ノクトの心には、あの物語の終わり方に、完全な満足とか勝利の余韻があるわけではなく、負けとまで言わなくても、「失ってしまった」という、諦めというか、喪失感というか、そういった気持ちがどこかにあることが伺えます。

もう眠りにつこう、カーテンを閉じて

*この場合にはcover=布団。ノクティスはよく眠るキャラクターなので、そのイメージ的にはこちらの訳があっているかもしれません。

どちらにせよ、戦いの時を終えて、安寧の中へ身を委ねる、静かで優しくて、でもどこか諦めや喪失感が感じられる一節。


One thing's for certain, oh
A year like this passes so strangely
Somewhere between sorrow and bliss

ひとつだけ確かに言えることは
とても不思議な一年を過ごしてきたってことだ
かなしみと至福の その間にあるような 不思議な時を

*一年、とあるのはあくまでそういう言い方をしているだけで、実際には物語の中でノクトが仲間と過ごした時間全体を指しているものと思われます。


Oh, who decides from where up high?
I couldn't say "I need more time"
Oh, grant that I can stay the night
Or one more day inside this life

これからの行く先は 誰が決めるというのだろう(俺にはもうどうしようもない)
もっと時間が欲しい、なんて言えるはずもなかった
どうかあと一晩 叶うなら あと一日だけ お前達と生きることができたなら

*from where up high……forwardなど、前へ進む、という意味の言葉でなくて、上方向へ向かうup highを用いているところが、天上へ向かうイメージを持たせ、ノクティスの来るべき死を予感させているように思います。

*grant thatは、神などに対して〜を与えてください、と祈る意味の言葉。

Too much, too much, too much, too much, too much
Never enough
Too much, too much, too much, too much, too much
Never enough
Too much, too much, too much, too much, too much
Never enough
Too much, too much, too much, too much, too much
Never, never, never enough

どんなに多すぎたとしても 決して十分だとは言えない

*タイトルにもなっているこの言葉の意味は、記事の最後に。


Oh, you wondrous creature
Coming up who we are

大いなる水神よ お前が俺(達)にあるべき姿を示してくれた

*creature=生き物、特に聖なる動物(ハリー・ポッターなどの魔法動物にはcreatureが使われている)。

ここでは、ノクトが水神リヴァイアサンから啓示を受けたことや、他の神々を指しています。ただこの場合、後ろのwho we areが、I=俺、じゃなくて、we=俺達、になっていることに納得がいかない……。この歌の歌詞のほかでは一人称がI(=ノクト)だから、ここだけweなのは気まぐれではないと思うのですが。あるいは、ノクト一人のことじゃなくて、神の力に守られたルシス国民全体を指しているのかもしれません。

*come upには、「思いつく(ここでは示す、と訳出)」の他に、「日が昇る」とか、夜明けが来る、という意味もあるので、まさしく、夜に閉ざされた国を救うために戦うノクトの旅路の果てというイメージが重なっているように思います。

素晴らしき人よ お前が俺(達)にあるべき姿を示してくれた

creatureは確かに人に対しても一応使う用法はあるらしいです(good creature=善人、とか)。単数系なので、素晴らしい人はLuna一人を指していると考えるのが自然ですが、歌詞だから、複数形が省略されていて三人の仲間達を指している可能性も、ありえないとは言えないです。ただその際にも疑問なのは、①同様IとWeの問題。

ノクト あなたの生き方が、私たちにあるべき姿を示してくれた

*この部分だけ歌手がキャラへの呼びかけ的に使っていると解釈するパターンです。Wonderous creature=ノクトで、歌手が自分たち、ゲームの外側にいる人間をweで指して、その生き方を讃えている?

And who cares about the thing I did that night?
So what? Maybe Luna had it right
And who cares if I'm coming back alive?
So what? 'Least I have the strength to fight

俺があの夜為したことを誰が気にかけるというだろう
だからなんだっていうんだ? たぶんLunaは正しかったんだろうな
もし俺が生きて帰ったとして 誰が気にするものか
だからなんだっていうんだよ 少なくとも俺は 戦うだけの強さを持っている

*(人)+have it rightで、(人)は正しい、という意味。「たぶんLunaは正しかったんだろうな。」
ここにわざわざmaybe=たぶん、をつけている!
この物語の終わり方は、ノクトがLunaから王としての責務を全うした結果であり、指輪を託されて、自分で選択し決断したものだけど、やっぱりそれは、彼自身にとって(王としてではなくて、ノクト自身にとって)本当に100%俺はこれで満足だ、と言えるものではなかったという気持ちが隠れているように思います。

ノクトは本当は四人でずっと一緒にいたかったのだと思う。それに対して、「でもこれで良かったんだ」と言ってるかのように聞こえる。やばい書いてて泣けてきた。

*この歌詞の部分が具体的に何を示しているかは解釈の幅がかなり広くとれます。

順当に考えると、夜に為したこと、は、アーデンとの最後の戦いのように思えるけれど、I did that nightと過去形になっているから、その戦い以前の、例えばクリスタルにとりこまれたこととか、あるいは、nightの複数形が省略されているとして、ノクティスがクリスタルの中で過ごした10年間(世界が闇に閉ざされていた10年)を指している、なども考えられます。

「And who cares if I'm coming back alive?(もし俺が生きて帰ったとして誰が気にするものか)」、は、実際にアーデン戦後のノクティス生存説を主張しているのではなくて、おそらく、ゲームの最後に流れたLunaとの結婚式のことを指して、「(実際には俺は死んでしまったけれど)生きて帰ってきたかのような 幸せな夢を見るくらい許されるだろ」というノクティスの気持ちを表しているのではないでしょうか。

*Who caresは、どこか「誰が気にするもんか」という投げやりで自暴自棄な印象を受ける言葉。ここにも、決断を下したのは自分ながら、どうせそういう運命なんだろ俺は、と、どこか寂しげに笑うノクトの表情が浮かんで見えます。
仲間にはそういう不平不満を漏らさず一人決意を胸に秘めていたノクトだからこそ、who caresのような率直に心境を吐露する言葉が胸に刺さります。


One other year; a hundred flags flying in a field
Time to let go of me

いつの日か 無数の旗が地上にはためくことだろう
もう俺を解放してくれたっていいだろ

 * ノクティスの勝利と、国の救済、そして王としての責務を全うした彼の死を暗示している一節。

最後、タイトルのToo much is never enoughについて。
英語版のエンディングを見ていて気づいたのですが、
ラストのキャンプシーンで、ノクトが、「俺な 覚悟して帰ってきたんだよ けど なんかこうしてお前らの顔見たらさ……悪い やっぱ辛ぇわ」と他の3人に零す場面。

この「やっぱ辛ぇわ」、英語だと、「It’s more than I can take.」となっているんですよね(画像参照)。

f:id:persimmo:20170202154002p:plain


It’s more than I can take、直訳では「俺には背負いきれねぇよ」だけど、これと同じ意味でよく使う英語表現が、「That’s too much.」。

勘弁してくれよ、とか、いい加減にしてくれよ、みたいなときに、「That’s too much.」と言う。

この曲は、この最後のシーンでのノクトのセリフをタイトルにしていて、まさにこのキャンプシーンでのノクトの心境を歌っているのではないでしょうか。

Too much is never enough、は、「Too much」が王としてやらねばならないこと、王としてのノクトの宿命や責務で、never enoughは、「分かっているんだけど、それでも俺の(ノクト自身として、仲間と生きたかったという)心を殺すには十分じゃない」という、まさに「やっぱり辛い」というノクトの気持ちを表しているんじゃないかと。

 
FF15、本当に素敵なゲームでした。
自分はゲームに苦手意識があって、これまでこういったRPGはプレイしたことがなかったのですが、実況が本当に面白かったので、いつか自分でもプレイしてみたいと思います。
四人が大好きです。

高3限定ー梶本レイカ:暴力や搾取に意味はあるのか。

高3限定を読んだ。BL漫画において、「読まれなければならない」と思った作品は、これが初めてかもしれない。

前回こちらで感想を書いた「ミ・ディアブロ」と同じ梶本レイカ先生の作品。そもそもこの作家さんに出会ったのは、「高3限定」を人から勧められたのがきっかけだった。

昨秋、Twitter上でオススメの作品を募っていたところに、一通のDMをいただいた。 「大事なお友達から、内緒話をするように教えていただいた作品です。あなたにもこっそりお伝えします」

それが、「高3限定」だった。

当時自分は国外に住んでおり、電子媒体で読みたかったのだがKindle版が無かったため、紙媒体のものを日本の実家宛に通販し、帰国後一番に手に取った。

戦慄した。

感覚的な記述で申し訳ないのだけれど、この作品を読む間中、胸の内側がすうっと冴え渡って、瓦礫のように積み上がった氷の欠片を、その切っ先で指を傷つけないように、一枚一枚剥がしてゆくようだった。その奥に何かがあるのを知っていて、それを目指して欠片を取り払ってゆくのだけれど、同時にその奥に生き埋めになったもの、あるいは既に死んでいるのかもしれないそれを見つけ出してしまうのが怖いような不思議な感覚。

「これはただの恋じゃない」と帯にある、まさにその通り。
この本のテーマは愛や恋ではなく、別のところにあって、それがたまたまBL要素を含む形で描かれただけなのだと思った。
私からすれば、これはただの物語ですらない。ある種の心象風景、私たちが現実の人生の中で出会う、筆舌に尽くし難い感情そのものだ(それは叶わない願いとか叶わない愛だとか叶わない生き方だとか理由のない搾取だとか救えなかった命に対しての、ぐっちゃぐっちゃした何か)。

どうか、試しに一巻、というのではなく、三巻まとめて手にとって欲しい。
そして何を思おうと、どんなに苦しかろうと、最後まで読みきって欲しい。

あらすじ。
全寮制の男子校に通う小野は教師のイケダに恋をしていた。

『健全な精神を育成する為』の山奥の校舎は 
果たして『健全』だったかどうだか 
箱庭の記憶の様に非現実的に脳裏に刻まれている。
オレは 収容所の 傲慢なサル。

本当に オレはイケダが好きだったんだ。
あの閉鎖された檻の中でイケダだけが現実だった。
卒業生で まだ若くて 話題豊富のテキトーな授業な
そんなイケダが オレは本当にだいすきだったんだ。

オレは本当に イケダが好きだったんだ

高校3年の春、小野はイケダが毎年、3年生からひとりの生徒を選び、1年間だけ肉体関係を持つという噂を耳にする。それが、「高3限定」。
その年の「高3限定」となり、イケダと関係を持つようになる小野。しかしそこで目にしたのは、イケダの身体に残る歯型、火傷、緊縛痕、その他無数の暴力の痕跡だった。

「前のヤツかよ誰だよ!?ソレ…アイロンだろ?人間じゃねーよ!俺…許せねぇ…ブン殴ってやるッ!」
殴ってやると言った口で、依存した口付けを繰り返した

小野は夢想する。自分が、あらゆる傷からイケダを救える、最初の男になれるのでは、と。そして何度も何度も、イケダに「大好きだ」と愛を伝える。

『大好きだ』と、100唱えるよりも 一度でも、『幸せなのか?』と、問うべきだった。

イケダは時に悲痛な叫びで許しを乞い小野に奉仕するかと思えば、一方で傲岸な態度で小野に野良犬殺しを命じたりする。
(「なァ……オノぉ……犬———なんだァ アレ…責任取れよ始末しろよ?殺せよ?萎えてかなわねェ———」)
小野もまた同じ。
イケダへの突き抜けた優しさと愛情(「センセイのこと考えると 懐かしくって泣きたくなって ずっと一緒にいたくて放したくなくて」)が、時折凶暴な渇望に変わる(「言えよ 俺のどこがダメ?スゲーイイコなのにオレ。愛情フルコースだったろ?おい」)。

主に小野の視点で描かれる一巻前半、その狂気的なまでの揺らぎに、読んでいて何が現実で何が真実なのか分からなくなる。美しさと醜さとか、生きたい気持ちと死にたい気持ちとか、本当と嘘だとか、そういう正反対のものが、それはもう凄まじい勢いで混在しているのだ。
その混沌ゆえだろう、この作品をホラーだとかミステリーだとか評する人もいるし、実際に公式の説明でもホラーという言葉が使われているけれど、私はそうは思わない。
これはただ純粋に、自分の視点でしか物事を見られない、そして過去に対して振り返る以外に成す術をもたない人間が見る現実の姿(または思い出の姿)、そのものを忠実に写し取った結果なのだと思う。

梶本さんの得意とする、過去と未来が絶え間なく現在の間に挿入されてゆく語り方、その未来の一場面において、小野はこう述懐する。

時折、18の自分に嫉妬する。
あの白い 腐食した花びらを食んだ、この指が憎い。
今すぐ この指を 喰い千切って 靴底で踏み躙ってやりたい。
だが まだ お前の味を含んだこの指は惜しいので、
時折、18の自分に嫉妬する。

「得体の知れない暴力に壊されていくイケダと、それを救うことで自分の存在意義を得ようとした小野」という見かけ上の物語は、一巻の後半、それまでの脇役である小野の親友トミーの証言、それに続く「土屋将隆の日記」という短編によって、新たな一面を現す。
町が隠す「事件」とは何か、「高3限定」の本当の意味はなんだったのか。

2巻以降、お前を救うと言い募る小野をイケダは恋人として受け入れ、一夏を共に過ごす。
しかしその中で、イケダの謎はますます深まってゆく。精巧な義眼、繰り返される長期の治療。
イケダは小野のことを、時々「ツチヤ」という名前で呼ぶ。「ツチヤ」が彼を助けるために生き返った、それが小野なのだという。
「ツチヤ」がイケダにとっての救世主なら、自分は自分自身ではない誰かになっても構わない、とさえ小野は思うようになる。
「俺の名前が変わるくらい……俺の存在が消えるくらい……何の意味も為さないよ、俺が『小野耕平』で或る事は……」
そう思う一方で、小野の言動は矛盾する。自らの存在意義を切望する彼はやはり、他の誰でもない自分自身を、イケダに必要として欲しかったから。
そして小野はツチヤを、生き返りの神話を、否定する。
「恋人から拠り所を奪い 青臭い自己証明の為に 傷ついた恋人を更に追い詰めた」

イスだ
パーティーしてた
あの頃、あの夏———オレと先生はイスの足一本でバランスを取りながら 崖っぷちでパーティーしてたんだ
別にオレは 谷底までダイブしたってよかったんだけど
先生は何故、先にイスから降りたんだろう———

第三巻の後半半分を占める、タネ明かしとでも言うべき章が圧巻。
トミーの告白が、イケダと小野の、まるで町それ自体のように閉じた世界を、外の世界に繋ぐ。
1ページ1ページの持つ力が、とにかくすごい。

この作品には、元となる事件があるという。
それがなんなのか明確には述べられていないが、おそらく確実にこれだろうという事件は特定されている。
私はその事件当時まだ生まれておらず、読んでいる最中その事件との結びつきが直接脳裏をよぎるようなことはなかったのだけれど、読了してから事件について調べるうちに、ハッとした。
私は実はその事件の現場の近くの出身で、小学校時代、半ば怪談の一種として、「コンクリート……」という言葉が子供達の間で囁かれることがあった。
それがおそらく、作者である梶本レイカさんがこの作品を生み出す契機となった事件だったのだ。
漫画読了後、事件の詳細をネットで調べたが、読むに耐えないものだった。
いわれのない暴力。理由のない暴力。意味のない暴力。希望のない暴力。救いのない暴力。それは普段の私たちの生活からはあまりにかけ離れていて、でも無責任だと自分を詰りたくなった。

高3限定は、その事件をきっかけに生み出されたものかもしれないが、実際にそこで描かれる物語は、全く異なっている。
斬新で練りこまれたキャラクター造形や物語は、ドキュメンタリーやルポルタージュとは違う、梶本レイカさんのオリジナルだ。
この作品はBLとしての人間ドラマでありながら、次元を異にする何かについて語っている。
その語り口は、言いようによっては詩的とか芸術的と評されるものかもしれないけれど、決してかっこつけるためだけのレトリックではなく、私には、それはそう描かれる以外に方法を持たなかったのだ、というように読めた。梶本レイカさんは、誰にも描けないやり方で、誰も描くことができなかった主題を、ひとつの物語として誕生させたのだと思う。シーン変更や言葉の使い方、コマ割り、非常に多様な筆致の併用、それら全てが、ありのままでは目に映らない世界を、私たちの目に映る次元に落とし込んでくれている。

たぶん、この作品がその重厚さに見合う評価を受けられずにいるのは、
あまりに多くのテーマを含みすぎてしまったからだと思う。
では、この作品の伝えたかった意味を、ひとつの言葉で表すとしたら、何になるだろうと、ずっと考えていた。

(以下、最後に少しだけネタバレ考察含みます。)
それは、「全ての物事に対して意味を求めてしまう人間のあり方」ではないかと思う。人生や、過去や、そして脅威や暴力に対してまでも。
意味を付さずには不安で仕方なくて、それに失敗すれば「異常」や「狂気」という言葉で片付けてしまう、人間のあり方ではないかと思う。

そして意味を他人の上に求めた時、それは依存になる。
小野とカイド(土屋)が、イケダに対してそうしたように。(二巻でカイドの指が切断されるのは、「嘘の続きを担った」彼自身が意図的にしたことではないか?)

そしてそうした人間のあり方が、「コウサンゲンテイはありませんでした」というイケダの最後の言葉によって否定される。
他人に意味を求める人間のあり方が、「小野 お前の存在その物が 搾取なんだよ」という言葉によって否定される。

だからこれ以上、この作品の持つ意味を追求するのはやめようと思う。
でもひとつひとつの描写や言葉が伝えようとしたことは、また作品を読み返す中で、丁寧に拾ってゆきたいと思う。
「高3限定」には、なにかがある。
だからこそ、是非、もっとたくさんの人に、この作品を読んでほしい。

高3限定は、装丁も実に素晴らしい。私が特に好きなのは、下の三巻。

社会不適合者の帰属意識。年末の有明。コミックマーケットという純粋日本社会。

毎年夏と冬に有明に行くようになって、かれこれ10年を数える。

 

初めてコミックマーケットに参加したのは中学二年生の冬。当時好きだった個人サイトの方がサークルを出すというので初めてその名を耳にし、一体それがどんなイベントなのかも曖昧なまま、朝8時頃から冷たい海風の吹き付ける駐車場に並び始めたのを覚えている。

 

実際に会場へ足を踏み入れる前、私が「コミックマーケット」に対して抱いていたイメージは、同じ作品を愛好する人々が集うお茶会のようなものだった。お茶会とは言わないまでも、ちょっとしたサロンのように、集った参加者同士が声をかけ、語らいあう、そんな交流の場を思い描いていた。恥ずかしながら、人が私に声をかけるきっかけになればと、私はフェルトで好きなキャラクターのマスコットを手作りし、鞄にちょこんとつけたりまでした(当時大好きだった鋼の錬金術師のエドとウィンリィだった)。それを見た誰かが、「可愛いですね、私もハガレンが好きなんですよ」と話しかけてくれることを祈って。

 

全然違った。

実際のコミケは、私が事前に思い描いていたそれと、全然違った。

 

人々はお目当てのサークルに一目散に突進し、黙々と本を漁り、一般参加者同士の交流などほとんどない。みんな、自分一人だった。何人か親しげにサークル主と話し合っている人もいたが、人見知りの自分にそんな勇気は到底なかった。ましてや自分は周りの参加者と比べても明らかに幼すぎた。

私はビクビクしながら二、三冊の薄い本(全年齢)を買い、会場をあとにした。

 

ただ一つだけコミケが私の事前イメージと違わなかったのは、それが間違いなく「俺たち、私たちの場所である」という、会場を包み込む帰属意識だった。

 

そして私はその帰属意識にのめり込んだ。そこには自分の居場所があるように錯覚した。

その翌年の夏コミも私はコミケに参加した。今度は他のアニメ好きの友達も誘った。その年の冬コミには始発から並んだ。

ことに、勉強に生き勉強のため生きた高校三年間などは、盆の三日間が終われば年末の三日間を、年が明ければまた夏の盛りを、指折り数えて生きるほどに、私はコミケに依存した。

 

この十年間、サマースクールで東京を離れた一回を除き、二年にわたる海外留学の期間でさえ一時帰国にかこつけて日本に戻り、一度も欠かさずにコミケに参加してきた。

 

依存していた。

 

国外の友人に列移動のラプス動画をシェアしては、コミケのスタッフと参加者がいかに統率されているかをこれ見よがしに語り、会場独自の暗黙のルールがあることを誇ってさえもいた。

 

「社会不適合」なんて言葉で自らを揶揄する人々も(もちろんそうではない人々も)誰もが許され、自分らしくいられる場であるのだと、そう思っていた。

 

そんなわけなかった。

自分らしくの意味を、私は、過大解釈していた。

 

先に断っておくと、私がコミケを愛していることに変わりはないし、誇らしく思うことも、これからも参加を続けるだろうことも変わらない。

 

ただ、なんというか、これまで自分は無意識にその場所を自由の象徴として賛美していたけれど、それは少し違ったのだ、という当たり前の気づきについて語っている。

 

まさしくコミケは、人々が自分の思いを表現し、その人らしくあれる場、だと思う。

でもその場所を守るために、数多のルールが敷かれ、人々は無言のうちに互いを監視しあっている。それは日本社会からの逃避や解放ではなく、むしろ極めて純粋な日本社会の再現ではないか。人々が「適合できない」と言った、まさにその日本社会の。

 

今年、叶姉妹コミケ来訪が大きな話題になった。

彼女たちがイベントへの参加に関心を示して以来、どこにも明文化されていない数多の「ルール」を、訓練されたTwitter民が盛んに教えたという。

 

叶姉妹マーケティングは一流だったと思う。部外者への拒否反応の強いオタク界隈に巧みに溶け込み、「売名のためだけにコミケを利用するな」というバッシングになりえた全体意見を極めて好意的なものに変え、自分たちを「拝む」対象のキャラクターとして確立した。私のタイムラインでも、怖くなるほど、彼女達に対するネガティブな意見を一切見かけなかった。

 

実際叶姉妹が東ホールに入場した時、私はちょうどその場に居合わせたのだけど、驚いた。多くの参加者が、携帯を取り出し、自分のスペースを立ち、大きなうねりとなって有名人の後ろを追いかけていった。ホール一面がざわめきに包まれた。

 

そこで私が見たのは大衆だった。一人一人ではなく、人気ゆえに人気を讃える大衆だった。

 

そういえば全てがそうだった。人気ジャンル、大手サークル。大衆理論に基づいたイベント、それこそがコミックマーケットだった。

 

帰り、ビッグサイトから東京駅までの直通バスに乗った。

渋滞に巻き込まれたバスは通常より二倍とも思える時間をかけてノロノロと進む。人いきれで車内は熱され、窓は一面白く曇った。多分、乗客はみんな疲れて、イライラしていたと思う。

私は普段一人で乗るときは本を読む。しかしこの日はたまたま友人たちと乗り合わせており、話をしながら車内の時を過ごしていた。

大きな声を出していた自覚はなかったのだが、もともと自分は声がいわゆるアニメ声に近いところがあり甲高く、演劇向けでよく通ると言われており、そのことに気が至らず話していたためだろう、前に立っていた一人のオタク男性がくるりとこちらを振り向き、こう言った。

「さっきから喋ってるアンタさぁ、車内って普通喋る場所じゃないだろ。楽しいのは分かるけどさ、静かにしろよ」

私は何度も謝罪したが、車内はシーンと凍りついたようになってしまった。

昔、両親に「お前がいると空気が悪くなる」と言われたことを思い出し、またしても私は自分の存在が人々を不快にしてしまったと、反省する気持ちの中に少しだけかなしくなってしまった。

 

もちろんこのこと自体は、男性が言う通り、公共の場で周囲に気を遣わず話をしていた私に非がある。社会マナーの欠如。

それを承知であえて言うならば、でも私は、そうしたルールの上に成り立つコミケが、私は好きで、でも同じ土台の上に立つ日本社会が、大嫌いだった。

 

私は大学一年の頃、海外の学生を引率して日本各地でディスカッションをする学生団体の活動に従事していたことがある。

そこの同い年のサブリーダーが、とても厳格で、ルールに厳しい人だった。

一年を通じた活動の間、ズボラで柔軟さを重視する私と彼は、たびたび衝突した。彼自身は、実は心根が優しく、そのギャップが私は大好きだったのだが(本当に、アニメキャラだったら一番好きなタイプだった)、共に企画を進める中でストレスが溜まり、私は一年の終わり、海外の学生を招いたその最も重要な本番一週間に高熱を出し寝込んでしまい、週半ばからの参加になった。

薬で熱を下げ、途中で合流した私が見たのは、日本を訪れ、興奮したように駅のホームで話すアメリカからの学生達に対して、「アー・ユー・スチューピッド?」と怒鳴る彼の姿だった。

「ここは日本だ。郷に入ったら郷に従え。駅のホームでは騒ぐな」

アメリカの学生達は、うなだれたまま、何も喋らなくなってしまった。

それを見た途端、一年間私の中に折り重なってきたものの抑えが、決壊した。人前で負の感情を見せることはやめようと思うのに、ましてや人前で泣くことなんて絶対にごめんなのに、涙が溢れて止まらなくなってしまった。

自分が怒られたわけでもないのに突然シクシクやりだした私にアメリカの学生達はますます驚いてしまったことだろう。電車を降りたあと、一人の学生が私に近づき、そっと肩を抱いて、「Are you sad?」と聞いてくれた。

(ちなみに、これは私が生きてきた中で一番優しい言葉だった。なぜと問う代わりに、ただ、「悲しいの?」と聞く。それ以上は聞かない。代わりに抱きしめる。こんな優しさが、他にあるだろうか)

私はその一週間後、翌年はその団体を続けることなく、やめた。日本組織に、私は属することができないと思った。

 

欧米では、人は好きな場所で、好きなように騒ぐ。声を上げる。公の場で自分はこれが好きでこれが嫌いだと言う。

フランスやスペインでは、電車の中の至るところで、金のないパフォーマーや、あるいは単なる乞食が、乗客の許可も得ずに大音量で音楽をがなりたて、それでも乗客は(たまに少し嫌な顔をするけれど)文句ひとつなく乗っている。

正直アメリカで、隣で私が寝ているにもかかわらず部屋で騒ぎ立てる人達に辟易したり、欧州の鉄道で押し付けパフォーマーをうるさく思ったことも何度もあるけれど、私にはそのある種の寛容性と、他人への配慮のなさが、気楽でもあった。

海外には日本ほどルールがない(あるいは異邦人としての私が不文律に気づかなかったという可能性もあるにしろ)。

 

ルールに律された、訓練された日本社会は美しい。

それは内部にいる人々の自由を守ってくれる。日本は美しい。

けれど、それを当然として、それ以外のあり方を許容しないような形で誇るのは、オタク的な閉塞主義であり、日本社会の排外主義であり、私は、それが、ときどき、少しだけ、怖い。

 

自分は日本社会の同調思考と和の精神にどうしても馴染めない。

社会マナーも、常識として自然に身に付けることができない。マナーは、覚えるべき何かである。
あらゆる点において、私はいわゆる社会不適合者だ。

暇と金を見つけては海外に行き、留学も経験し、日本社会から逃亡する、そのたびにまるで息継ぎをしているような気がする。
完璧すぎて、時に息苦しささえ感じる、日本。

 

今までずっと救いだと思っていたコミケは、そんな日本社会と、全く同じ構造をしていた。

 

改めて言うけれど、私はこれが悪いとか変えるべきだと言っているわけではなくて、単純に極めて明快な真実に、私が気づかずに10年を過ごしてきて、今更思い至ったということについて話している。

 

明日は大晦日。

私はまた朝早くから、その愛すべき人混みに身を投じに行く。

私はそれでも、コミケも、日本も、大好きで仕方がないのだ。

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※2016/12/31 追記: 書き方が悪く誤解を招いてしまったかもしれないのですが、自分はイベント運営体制や個々の参加者のあり方についての不満を書いたつもりではなく、むしろこの場所を守るために一人一人が考え行動している姿には毎度尊敬と感動の念を抱いています。

今年の冬コミも最高でした、スタッフさん、参加者の皆さん有難うございました。

 

 

ミ・ディアブロー梶本レイカ:欺きあいながら誰よりも互いに誠実であった二人。

オススメのBL漫画。

小田原から東京へ向かう東名高速道路の上で読んだ。窓の外、過ぎ去る景色を何一つ覚えていない。普段車酔いしやすい頭がやけに冴え渡って、たぶんあまりに引き込まれていたがために三半規管さえ麻痺していたのだと思う。貪るように気づけば一冊を読み切っていた。
硝子のような線の美しさと時々はっとさせられる位リアルな肉の質感の入り混じった他に無い画風だとか、フィルム・ノワールの長編映画をぎゅっと一冊に押し込んだような話の重厚さだとか、紡がれる言葉の独特な連なりだとか、そんなのはどこかの誰かが書いていることだと思う。
私は何を言えばいいのだろう。

梶本レイカさんの漫画は、物語を語るために、描かれるべくして描かれたものに思える。

何一つないがしろにされていない、伝えるべきものがきちんとそこに宿っている。だから単なる娯楽としては読めない。大量生産される消費財としてのBLではない。この本を好きだと言う時、それは単なる作品に対する好き嫌いの話ではなく、その人自身の人生を語る言葉になってしまう。だからこそ、もしかしたら人は単純にこの作品を大衆へ勧めることができないのかもしれない。それはその人自身を赤裸々に語る言葉になってしまうから。

この本はBLというジャンルに分類されていて、私はそれが大好きなわけだけれど、そのジャンルという枠ゆえにこの本をおそらく手に取らない人もいるかもしれないと思うと、ひどくもったいない気持ちになる。


ミ・ディアブロ。お互い騙しあいながら、誰よりも互いに対して誠実であった二人の男たちの物語だった。

アメリカ人の父と、メキシコ人の母から生まれたジェイク。父に捨てられ、自らの出生を証明するために警察官になった彼は、自らを麻薬の運び屋と偽り、メキシカンギャングの若きリーダー、ミゲルのもとで潜入捜査をすることになる。凶暴さと人懐こさを兼ね備えたミゲルもまた、白人の血の混じった己の出生に苦しみ、純粋なメヒカーノでありたいと願っている。そんなミゲルが自分に対して示す愛情に、ジェイクは自分が渇望していた父の愛を見出す。
しかしジェイクはミゲルを警察へいずれ売らねばならず、そしてまたミゲルの正体も実は……、というあらすじ。

痛々しい暴力シーン、ドラッグ、退廃、共依存、破滅。ページを繰る指が強張るような描写の数々。それでも繊細な線とコマの構成、さらに美しい言葉が、それらを芸術の域まで高めている。

個人的に好きなのが、退廃の末、強姦状態でジェイクを組み敷くミゲルが、ファザコンだとジェイクを罵りながら父親であるかのように愛を囁き犯す最後に、自分自身の言葉をそっと呟くシーン。

「相手してやるぜ!好色ラティーノ!」
「黙れ!チンピラ!!」
「エイ!ヴェンガ!来いよボニータ!!…(ジェイクの頭を引き寄せ)…『パパだよ、ジェイク』」
「ふッ……ふざけるな!」
「『ジェイク、パパを慰めてくれ』」
「ま…待…て…待って……ムリなんだ……カラダ……ミゲル……」
「『NO パパだ』」
(ジェイク、言葉を失い)
「『愛してる ジェイク』ーー愛してる」(ここのミゲルのセリフの『』外しに戦慄!!)

あまり書くとネタバレになってしまうので抑えるけれど、開始15分で死ぬ役としてミゲルが出演した映画を、何度も何度も何度もジェイクがリピート再生するシーンとかも涙を誘う。

「アディオス ミゲル。君と、人生をやり直したかったな」




絶対にビターエンドだと思ったけれど、最後は救いのある終わり方だった。
おそらく人生の中で、私は何度でもこの本を読み直すと思う。